
2025年 3月 4日 VOL.242
ショーン・ベイカー監督の悲喜劇コメディー『Anora アノーラ』で撮影監督ドリュー・ダニエルズが70年代のスピリットをコダック 35mmフィルムで呼び起こす

ショーン・ベイカー監督作『Anora アノーラ』より Image Ⓒ 2024 Anora Productions, LLC.
撮影監督ドリュー・ダニエルズが4パーフォレーションのコダック 35mmフィルムを使い、アナモフィックでワイドスクリーン撮影したショーン・ベイカー監督のパルムドールとオスカー受賞作『Anora アノーラ』は、観客をワイルドで予測不可能な旅へと誘います。
マンハッタンのストリップ劇場でラップダンサーをしているアニーは、ロシア新興財閥の甘やかされた息子ヴァーニャと出会い、彼の豪邸で短期間のロマンスとラスベガスへの快楽的な旅行を楽しんだ末に彼と結婚し、自身のシンデレラストーリーのチャンスをつかみます。
しかし、2人が結婚したとの知らせがソーシャルメディアを通じてロシアにいる彼の両親に伝わり、アニーのおとぎ話が脅かされます。両親が、ニューヨークにいる息子の見張り役トロスと彼の地元の部下であるイゴールとガルニクに圧力をかけ、結婚を早々にやめさせようとすることで予期せぬ出来事が次々と起こります。
脚本、監督、編集をショーン・ベイカーが務め、主役にマイキー・マディソンが起用されたほか、ヴァーニャ役をマーク・エイデルシュテイン、トロス役をカレン・カラグリアン、イグール役をユーリー・ボリソフ、ガリニク役をヴァチェ・トヴマシアンが演じています。

ショーン・ベイカー監督作『Anora アノーラ』より Image Ⓒ 2024 Anora Productions, LLC.
本作は2024年のカンヌ国際映画祭でプレミア上映され、名誉あるパルムドールを受賞しました。またマディソンの目の覚めるような演技に加え、性、美、富のパワーを描いたベイカーの悲喜劇コメディー、そしてドラマの展開に伴って色調が変化するダニエルズの撮影技術が高く評価され、批評家からも広く称賛されました。
2025年の映画賞シーズンにおいて大きな注目を集めるであろう『Anora アノーラ』は、カンヌ国際映画祭にもノミネートされた16mmフィルム撮影の『レッド・ロケット』(2021)に続き、ダニエルズがベイカーとタッグを組んだ2作目の作品です。
「『レッド・ロケット』では、ショーンも私も“一緒に仕事をするのがとてもやりやすい”と感じました」とダニエルズは打ち明けます。「私たちは、オフィスに座って脚本をシーンごとにショットリストに分類していくといった伝統的な準備は全くやりません。ショーンはむしろ、一緒にロケハンしながら環境を見て、全般的なアイデアや特にロケ地でのブロッキングについて話し合います。撮影が始まってから、初めて映画が本当にひとつになっていくのです。常にリスクが高く苦悩することもありますが、私はそのような映画作りを楽しんでいますし、確かな結果が得られると感じています」
ダニエルズはベイカーの脚本を読んだ時の感想をこう語ります。「最初に読んだ時から、浮き沈みの激しいストーリー全体の中で2つの異なる作品を扱うような印象を受けました。最初はアノーラにとってすべてがうまくいっていたのに、次の瞬間、足元の絨毯を一気に剥ぎ取られるかのようにストーリーが一変します」

『Anora アノーラ』の撮影現場にて、撮影監督ドリュー・ダニエルズ(左)とショーン・ベイカー監督 Courtesy of Drew Daniels.
「私たちは、この旅の前半では、若者の高揚感や活力といったある種の誇張された現実をカメラの自由度と映像の色彩や暖かみを通じて、ロマンティックコメディーのように伝える必要があると考えました。後半では、むしろギャング映画に近い全く異なるビジュアル言語や、より冷たく渋いカラーパレットを使った撮影に移行していくことでストーリーの劇的な変化を強調しようと決めました」
ダニエルズは、感情豊かなストーリーテリングをどのように映像化するかについてベイカーと意見が一致するに至ったことを明かし、こう説明しました。「ショーンはどちらかというと客観的なフィルムメーカーですが、私は登場人物の視点から主観的に撮ることを好みます。アノーラは汚れ仕事をこなす娼婦である一方、ヴァーニャと彼の世界にますます興味を持つようになるので、時には彼女の視線で物事を見せることによって、彼女の好奇心を表現する必要があると思いました」
「そのため私たちは、視覚的言語の中で次の2つのバランスをどう取るかについて多くのディスカッションを重ねました。アノーラとその他の登場人物を客観的に撮りたいというショーンの願望と、彼女の視点から世界を見て、観客と彼女の性格、態度、感情の道筋を結びつけるような体験的な撮り方をしたいという私の願望のバランスです。ショーンは提案にオープンかつとても協力的だったこともあり、私のアイデアを取り入れてくれました」
視覚的な参考資料に関してダニエルズは、彼とベイカーが1970年代のスピリットをクリエイティブな思考に取り入れたかったと言います。特にニューヨークを舞台にした犯罪ドラマ『サブウェイ・パニック』(1974、ジョセフ・サージェント監督、オーウェン・ロイズマン撮影監督(ASC))、『フレンチ・コネクション』(1971、ウィリアム・フリードキン監督、オーウェン・ロイズマン撮影監督(ASC))のようなスピリットです。

ショーン・ベイカー監督作『Anora アノーラ』より Image Ⓒ 2024 Anora Productions, LLC.
「私たちは、これらの映画のルックやニューヨークの荒れ果てた都市景観の厳しい現実を表現する手法が大好きでした。それはアナモフィックのフレーミングと、フラッシングやレンズの絞りを開放して撮影したり、露出をかせぐためにネガを増感したりして得られた35mmフィルムのくすんだボロボロの質感で実現されていました。私たちは、蛍光灯の咲き乱れるような強い光線とドリーの動きが分かる揺れが気に入っていました。そのようなあらゆる不完全さを盛り込み、生き生きとした作品にしたかったんです」
ダニエルズはさらに、ジャン=リュック・ゴダール監督の『軽蔑』(1963、ラウール・クタール撮影監督)から人体を風景のような構図で捉えるワイドスクリーンフレーミングを学び、本作の親密なシーンの参考にしたと言います。
『Anora アノーラ』の主要な撮影は2023年2月初旬から40日間にわたって行われ、コニー・アイランドやブライトン・ビーチといった海辺のリゾート地やシープスヘッド・ベイの豪華なゲーテッド・コミュニティなど、ニューヨーク市ブルックリン地区を中心にロケが行われました。また、ラスベガスのパームズホテル、ダウンタウンにあるフレモント・ストリート沿い、そして市内に数多くあるウェディングチャペルのひとつでも撮影しています。
テスト時にはバーバンクのARRIレンタルチーム、撮影開始後にはニューヨークのARRIレンタルチームのサポートを得て、ダニエルズはARRICAM LT 35mmフィルムカメラを選び、フレーミングは1:2.40のワイドスクリーン、4パーフォレーションのアナモフィック、撮影のメインにはLOMOのヴィンテージプライムレンズとズームレンズを使用しました。レンズパッケージには、夜間の車内撮影など低照度の場面用にアトラスオリオンのレンズが追加されました。

『Anora アノーラ』の撮影現場にて、撮影監督ドリュー・ダニエルズ Courtesy of Drew Daniels.
「この映画における旧ソ連時代のガラスとロシアのDNAという明らかなつながりはさておき、LOMOレンズは映像に柔らかさと一種の時代を超えた特性をもたらします」とダニエルズは言います。「アナモフィックではエッジが大きく歪み、本作で見られる特定の状況では、現代のいくつかのアナモフィックレンズで生じるようなきついブルーフレアというよりはむしろ、カラフルな円形状のフレアが出ます。私たちの目にはフレアがアノーラ自身の生きる姿勢を体現しているように映り、視覚的に物語を語るうえでリアリティをもたらすのに一役買いました」
ダニエルズは、コダック VISION3 200T カラーネガティブフィルム 5213と500T 5219を選択しました。フィルムの現像はコダック・フィルム・ラボ・ニューヨークで行われ、ロサンゼルスのフォトケムで4Kスキャンしてから、カラリストのアラスター・アーノルドが同社で最終のグレーディングを行いました。
「コダックのデーライトフィルムには目を見張るものがありますが、この作品には少しクリーンで温かみがあり、見た目通り忠実に再現され過ぎてしまうと感じました。昼/夜、室内/屋外の様々な状況で色に反応し、露出をアンダー/オーバーにしたり、増感/減感したりすると、ちょっと予測できない反応をするコダックのタングステンフィルムが私は大好きです」
「特に500Tを気に入っているのは、露出オーバーの時や、蛍光灯やストリップクラブの灯具、または移動中の車から撮影した店先がどのようなルックになるのか正確には分からない場面で使う時です。このような状況下で光源を際立たせてくれる500Tには本当にいい意味でいつも私たちは驚かされました」

ショーン・ベイカー監督作『Anora アノーラ』より Image Ⓒ 2024 Anora Productions, LLC.
「200Tと500Tであれば、映画の前半でリアリティを高めるために必要な生き生きとした色合いを表現できると同時に、後半部分では無補正で撮影することで、より冷たいカラーパレットも作り出せると思っていました」
ストリップクラブや夜間の車内は適度に暗く陰鬱な感じにしたい一方で、たとえ絞り開放で撮影しても、登場人物には十分な露出が必要であることを認識していたダニエルズはARRIのVariconフィルターをカメラに装着しました。
「基本的にVariconは、オーウェン・ロイズマン(ASC)が『サブウェイ・パニック』で使用した、フィルムネガをプレフラッシュするという古い技法と同じような働きをします」とダニエルズは語ります。「適正露出では、Variconから追加された光はシャドウの部分、いわゆる特性曲線の“足”の部分にのみ作用し、ミッドレンジやハイライトには影響しません。その結果、シャドウ部分のディテールが1~2段露出され、黒に若干の柔らかみが生まれます。これをショーンはとても気に入っていました」
ダニエルズによれば、アノーラとヴァーニャがトロス、イーゴリ、ガルニクと対峙する28分間の「家宅侵入」のシークエンスは、これまでの撮影の中で最も困難なシーンのひとつだったと言います。

『Anora アノーラ』の撮影現場にて、撮影監督ドリュー・ダニエルズ Courtesy of Drew Daniels.
「あれは私たちにとって大がかりなアクションシーンで、実際に撮影を始める前にスペース周辺のアクションのブロッキングにかなりの時間を費やしました。ストーリーの中でも非常に長く重要な場面だったので、独自の視覚的な道筋が必要でした。また、10日間かけて撮影する予定だったので、最初から最後まで一貫した感じを維持することが必要でした」
「実際のところ、ワイドスクリーンで撮影していて、部屋の片側には背の高い窓が並んでいて、他の壁には鏡と反射する大理石があったので、作業は簡単ではありませんでした。それに冬場の撮影だったので、有用な日照時間が7時間しか確保できなかったという現実もありました」
「そのため、曇天の日中にそのシーンの撮影を行ったのですが、これは光の一貫性という点で私たちの基盤になりました。無補正で撮影することにより、私たちが取り入れたかった、より冷たく、より自然な感じをネガに焼き付けることができました」
「もちろん撮影時は日差しが出たり陰ったり、集中豪雨が起こったりと、ありとあらゆる天候に見舞われたので、スペース周辺の光を包む込むために数台のLEDソフトライトを使いながら、20フィート(約6メートル)四方のバタフライを吊り下げて太陽光を拡散させたり、雨の時にはHMIを使って光を取り入れたりして状況を緩和しなければなりませんでした」

ショーン・ベイカー監督作『Anora アノーラ』より Image Ⓒ 2024 Anora Productions, LLC.
「撮影日の間中、私はどんな時でも適切な光量と光質が確保できているかを確認するため常に露出計を携え、露出を詳細にメモしていました。いかにして撮影日を最大限に活用するかという点で、かなり技術的なトレーニングになりましたね」
「例えば、朝の8時や午後の3時に撮影ができるようにネガを1段増感することも含まれます。外から照明を当てなければならない時や、昼夜問わずHMIで照明を当てなければならない時は、窓から視線をそらしたテイクで撮影しました。また、窓、鏡、大理石の表面からの反射を避けるため、ワイド、ミディアムショット、クローズアップといった異なる焦点距離も使いました」
「混沌から平穏へという物語の道筋を踏まえて、私たちは手持ち撮影からドリーでのより安定した移動の撮影に移行し、短焦点距離から長焦点距離へと少しずつ変えながら、レールを使わずに大理石の床やカーペットの上を動かして、その段差をうまく生かしました」
照明に関してダニエルズは、彼とベイカーが敬愛してやまない70年代の映画を彷彿とさせるため、伝統的なタングステン照明を使いたかったと言います。しかしロケーションの限られた性質上、照明の設置面積を小さくする必要があり、また、シーンの切り替えが多い中で俊敏さを求めながらも消費電力に気を配る必要もあったため、必然的にLEDに頼らざるを得ませんでした。

『Anora アノーラ』の撮影現場にて、撮影監督ドリュー・ダニエルズ Courtesy of Drew Daniels.
「私たちはロケ先で見つけた環境照明をベースに照明を考えました。ストリップクラブでは多くのその場の灯具とともに、ムービングライト、Creamsource Vortex、慎重に隠されたアステラチューブを使って、既存のレッド、シアン、マゼンタ、バイオレットの色度を高めました」
「夜間の車外シーンでは既存の街灯、さらには途中にある店や食料品ワゴンのイルミネーションを使いました。通り全体を照らすことはできませんでしたし、したくもありませんでしたからね。車内には小さな長方形のお手製ライトパッドをさりげなく設置し、私が顔の露出に細心の注意を払いながら絞りを開放して撮影しました。ほとんどの場面で露出レベルが4倍下回っていたにもかかわらず、500Tは私たちが望んでいたダークでリアルな感じを作り出してくれました」
彼はこう続けます。「大晦日のパーティーのあと、アノーラとヴァーニャがベッドから起き上がる夕暮れのシーンでの照明はとても楽しめました。PROLIGHTSのLED EclFresnelから暖かいオレンジ色の光が放たれ、バーンドアで光を形作ったり遮断したりしました。本作のシーンの中で私が一番好きなルックのひとつです」
『Anora アノーラ』を撮影した経験を振り返ってダニエルズはこう結びます。「フィルムでの撮影が大いに気に入ったので、私の連絡先にはそのことを明記しておきたいですね。でも、3ヵ月間家族と離れているのはつらかったですし、長い昼と長い夜の撮影は過酷でした。技術的なことやロジスティックスをすべて管理することはかなり大変でしたが、観客の皆さんにはそのクリエイティブな努力の結晶をスクリーンでご覧いただけます。そしてアノーラ自身がそうであるように、この作品には心がこもっています」
『ANORA アノーラ』
(2月28日より全国公開中)
製作年: 2024年
製作国: アメリカ
原 題: Anora
配 給: ビターズ・エンド
公式サイト: https://www.anora.jp/